2007年05月26日

作風について(2)

作品は、山水画は少なく、濃彩の花鳥画、とくに鶏の絵を得意とした。美しい色彩と綿密な描写を特徴とするが、写生画とは言い難い、若冲独特の感覚で捉えられた色彩・形態が「写生された物」を通して展開されている。

代表作の「動植綵絵」(どうしょくさいえ、動植物を描いた彩色画の意)30幅は、鶏、鳳凰、草花、魚介類などが、さまざまな色彩と形態のアラベスクを織り成す、華麗な作品である。綿密な写生に基づきながら、その画面にはどこか近代のシュルレアリスムにも似通う幻想的な雰囲気が漂う。「動植綵絵」は、若冲が相国寺に寄進したものであるが、のち皇室御物となり、現在は宮内庁が管理している。
ニックネーム 瑠子 at 21:01| 日記

作風について(1)

「続書家人物志」(青柳文蔵)には、若冲が狩野派の画家大岡春卜に師事したとの記述があり、大典顕常による若冲の墓碑銘にも狩野派に学んだとあるが、誰かに師事したことを示す史料はない。現存作品の作風から狩野派の影響を探すのは困難だが、図様について、狩野派の絵本との類似点が指摘されている。(なお、大岡春卜は狩野派の絵本の出版を通して、その図像・画法の普及に貢献した人物である。)

前記の墓碑銘によると、若冲は狩野派の画法に通じた後その画法を捨て、宋元画(濃彩の花鳥画)に学び、模写に励んだとしている。さらに、模写に厭いた若冲はその画法をも捨て、実物写生に移行したと伝える。実物写生への移行は、当時の本草学の流行にみられる実証主義的気運の高まりの影響も受けていると言われる。また、大典顕常が読書を通じて宋代の画家の写生の実践を知り、それを若冲に伝えたとも言われる。
ニックネーム 瑠子 at 20:57| 日記

伊藤若冲の生涯

正徳6年(1716年)、京都・錦小路の青物問屋「枡源」の跡取り息子として生まれる。23歳のとき、父・源左衛門の死去に伴い、4代目枡屋(伊藤)源左衛門を襲名する。「若冲」の号は、禅の師であった相国寺の禅僧・大典顕常から与えられた居士号である(「居士」は、在家の仏教信者のこと)。大典の書き遺した記録『藤景和画記』によると、若冲という人物は絵を描くこと以外世間の雑事には全く興味を示さなかったという。商売には熱心でなく、酒もたしなまず、生涯、妻もめとらなかった(同性愛者という説もある)。40歳の宝暦5年(1755年)には、家督をすぐ下の弟に譲ってはやばやと隠居し(当時、40歳は「初老」であった)、念願の作画三昧の日々に入った。以後、85歳の長寿を全うするまでに多くの名作を残している。
ニックネーム 瑠子 at 20:35| 日記